8歳3ヶ月。
娘が小さい頃から育児で意識していたのは多様性(過去の記事『多様性と異文化理解』)。
でも娘が小学生になり、目の届かない場所で生活する時間が増えてからは、「『皆んな違っていていい』って本当はどういうことだろう?」と考えさせられる場面が増えた気がします。
些細な違い、大きな違い
ある日のこと、娘の友達のおばあちゃんが私に「相談したいことがある」と言ってきました。話を聞くと、娘の友達のYちゃんが学校で嫌な思いをした、と。
Yちゃんが別の友達と遊んでいる時に、その子に「手がハンバーグみたい」と言われたと。さらに「そんな色にはなりたくない」と。それ以来、自分の肌の色を気にして落ち込むことが増えた、とおばあちゃん。
それを聞いてびっくりした私は、その夜 娘に「そんなことが学校であったの?」と聞きました。「うん、○○ちゃんだと思う」とクラスの子の名前を挙げました。娘はその場にはいなかったらしいけれど、どうやらYちゃんからその話を聞いたのだそう。
「そうなんだね、、、。Smileはどう思う?」と聞くと、
「うーん、私も日焼けしてるから結構黒いと思うけど、相手が傷つくことを言うのは良くないよね」と娘。
ごもっとも。
「○○ちゃんに言おうかな」とSmile。
「いや、Smileの目の前で起きた訳じゃないから言わなくていいんじゃないかな。ただまた同じようなことが目の前で起こって、嫌だなってSmileが感じたら本人に伝えたらいいかもね」
多様性を意識して育児をしてきたものの、こんなにも身近な所で肌の色の違いが話題に上るとは。しかも本当に些細な違い。
ああ、そうか。モノカルチャーな環境では大きな目立った違いがないから、ほんの些細な違いも大きな違いになってしまうのだな。大きな違いがないからこそ、重箱の隅をつつくように小さな違いが目立ってしまう。何だか複雑な気持ちになりました。
軸をしっかり持つ
自主保育スクールの時のように、その場にいたらその子と話もできるだろうけど、間接的に聞いた話だから何も出来ないことがもどかしくもありました。
そしてYちゃんと、その子とのことなので、私がどうこう言う訳にもいかないけれど、Yちゃんのおばあちゃんには、多様性のことについて少し話しました。
「みんな違っていて当たり前」
その違いを指摘されたり、違うことで嫌な思いをするかもしれない。だから家では、子どもが自分のことを認められるように環境を整えたい。
そしてそういう場面に子どもが遭遇したり体験しても、話せる相手でありたいなぁと思います。
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